ジョルジュ結城弥平次および結城如安と結城進斎

最後の登録武将だったジョルジュ結城弥平次についていくつか史実など紹介したいと思います。
また、結城ジョルジュの息子として登場させた結城如安やずいぶん昔ですが、子の刻で登録した結城進斎についても触れていきます。

動乱最後に登録する武将を誰にしようかと考えたとき、目の前にある小さな山が見えました。
この山にまつわる武将で以前から興味を持っていた人物が居ました。
それが、ジョルジュ結城弥平次です。

自分が住んでいる町にまつわる武将というのは、やはり独特の思い入れというものがあります。
大阪府四條畷市は、大阪と奈良の県境にある小さな町ですが、歴史上にたびたび登場します。

もっとも有名なのは、南北朝時代の楠木正行が戦いに敗れて没した場所としてです。

戦国時代には、当時の畿内支配者であった三好長慶がこの地の飯盛山城を居城としていた時期があり、短い期間ではありますが、四條畷一帯が日本の首都機能を持っていたと言える時期もあったようです。

その頃、飯盛山城の近くに岡山城という支城がありました。(以下河内岡山城と呼びます)
城のあった岡山という地名は現代も住所として残っていますが、その河内岡山城主が結城進斎忠正(山城守)です。
進斎は当時の畿内で有力な武士としては最初にキリシタンに改宗したことで有名で、彼の影響によって畿内を中心としてキリシタン武士が激増したとも言われています。
洗礼名はエンリケ。

ちなみに、この地の近く深野池という池といより湖と呼べるそこに浮かぶ三つの島を指す三箇という地を治めていた三箇サンチョという武将もキリシタンですが、やはり進斎の影響による改宗と考えられます。
三箇サンチョも以前に子で登録したことのある武将です。

進斎は、三好家の有力武将であった松永久秀の軍師的立場に居たと考えられています。
信長の柳生家への書状にも結城進斎が登場し、柳生家との結びつきがあった事が判ります。
また進斎は当時の高名な学者であり、畿内に影響を及ぼし始めたキリスト教の教理を問うために宣教師との問答をするという大役も務めています。
その際にキリスト教に感銘を受けて洗礼を受けたのです。
その先進性、頭の柔らかさ、優れた人物像が思い浮かびます。
文章力に優れ、交霊術や学問で有名であり、天文学も相当に身につけており、同時に偉大な剣術家であるこの老人が、高貴な方達にも尊敬されていたと、ルイス・フロイスが「日本史」の中で紹介しています。
剣術に関しては、あの柳生新陰流の「柳生連也自筆相伝書」にある九箇の太刀に必勝の太刀として紹介されており、「ユウキノシンサイハ、シュリ・シュリケントツカフ也」と柳生兵庫助が伝えたとの記述があります。
九箇の太刀というのは、新陰流創始者である"剣聖"上泉伊勢守信綱が諸流派の中から特に優れた九つの技を柳生新陰流創始者である柳生石舟斎に伝えたというもので、結城進斎がそのうちの必勝の太刀(左太刀)の使い手であったことを示しているようです。
シュリシュリケンって手裏剣を使ったんでしょうか。良く分かってないのであまり突っ込まないで^^;

最後の動乱の最後の会見でジョルジュ弥平次の霊を呼び出す役として再び進斎を登場させましたが、上記にあるように交霊術でも有名だったとあり、その点を強調させました。
実際はイタコ的な何かの事では無いのでしょうけれどそこはまあいいでしょう(笑)

このように相当マルチな才能を持つ進斎の甥がジョルジュ結城弥平次であり、弥平次の子またはその甥とも言われているのが結城如安です。
河内岡山城主としては結城如安が結城進斎の後を継いでいます。
弥平次はその家老だったとあり、進斎の子アンタン結城左衛門尉は早死にして後継者が居なかったそうなので、進斎の子では無いが弥平次よりは主筋に近いのがジョアンであり、その後見人的な立場に居たのが弥平次だったのではないかと思っています。
最後の動乱では、ジョルジュ討ち死にの後の流れで如安はジョルジュの子という説を取りました。


ジョルジュは弓の名手であったそうです。
また、相当に羽振りが良かったようで、身なりは金を使った金具で装飾された刀や兜などを持っていたという記録があります。
その金具を外して渡し、宣教師達を支援した話が残っています。
また、現代の門真市あたりで奇襲を受けたジョルジュが窮地にいた時、敵将の三木半太夫という武将がジョルジュの兜の前立を見てキリシタン同士という事に気付き、おかげで身柄を救われたという逸話があります。
当時のキリシタン武士同士の関係がわかる逸話として、ルイス・フロイスの「日本史」に紹介されています。
その兜の前立ては金色の"JESUS"。
かっこいいですよね。
ちなみに、相手の三木半太夫の息子が日本二十六聖人の一人として有名なパウロ三木です。

また、戦国時代畿内で最大の教会堂である河内岡山教会堂を建立したのもジョルジュだそうです。
宣教師達がこの教会堂を訪れた際の記録として、広大であり、美麗な十字架が架けられていたと紹介されています。
ちなみに、この教会堂は秀吉により取り壊されるところを高山右近の努力で大阪城近くへ移築されたとあります。
その後に秀吉自身により淀城へ移築されたともありますので、建築としてもなかなかの出来であったのだろうと思います。

結城一族は岐阜が出身地で、三好長慶の家臣松永久秀に仕えており、久秀に重用されたマルチな才能を持つ進斎を筆頭に、弓の名手のジョルジュやジョアン、アンタンなど一族が四條畷市域全域を治めていたようです。
一族の名のある武士は皆キリシタンで、多くの信者により崇敬されていたそうです。

河内岡山城は信長により棄却され、本能寺の変以後は秀吉の命で如安は近隣の三箇を治めその後移封。
小牧長久手の戦の長久手の戦いで討ち死にしています。
享年は29歳。

一方ジョルジュは、高山右近の家臣となり、右近が改易後は小西行長の家老となります。
関ヶ原以降は有馬晴信の家臣として生き延び、その晴信の死後は消息不明となっています。
一説ではキリシタン禁教を逃れ台湾へと渡ったとも言われています。
キリシタンとして生きましたが、武将としても有名武将達から重用されており、運に恵まれれば優れた叔父に負けぬ才を発揮したのではないかと思います。

ちなみに、ジョルジュや結城進斎、如安達が居た河内岡山城のあった場所は四條畷市内の忍稜神社のある場所だと考えられていますが、この場所は大阪夏の陣において戦国最後の勝者徳川秀忠が本陣を構えた場所として御勝山と呼んだ場所であったという説があります。
最後の戦国動乱天下人が徳川秀忠公であった事も不思議な縁を感じずにはおれません。

毎日、家から眺めるその小山にある歴史を胸に、これからもきっと戦国動乱を忘れずに生きていくことでしょう。