このページは、DORAさんが管理されていた戦国動乱WiKiが閉鎖されてしまいましたので、そこで掲載されていた自分のページを保存しておくために作りました。
初参加は1997年11月頃 午の刻五之巻でした。
初参加で、Seiichiさんとの一騎打ちの末に敗北し、幸か不幸かSeiichiさん率いる陣営による、動乱初と言われたIRCを使用しての連携による統一戦に参加できました。
以後、動乱の魅力にはまってしまい人生を遠回りしてしまいました。(笑)
2代目GMのオアシスさんから引き継いで2001年末から約1年半、3代目子の刻GMをしておりました。
その後GMは、むーさん、Qさんに引き継いでいただき、現在は稀に参加する気まぐれプレイヤーです。
プレイスタイルは、会見命。
戦国言葉をこよなく愛するがために戦国動乱に参加していると言っても過言ではありません。
名軍師に憧れますが、自分が軍師をする陣営は必ず敗北への道を突き進むという過去を持ち、むしろ名軍師に支えられての盟主が自分に適しているのかもしれません。
師弟関係にあるのは、きびすけさん、夢滴さん、zaquさん。
手ほどきを受けたのは、ユリアンさん。
影響を受けたのは、Seiichiさん。
憧れたのは、NYUUさん。
ライバルは、OK!さんを指名します。
今年で10周年を迎える動乱ですが、初期の動乱を知る世代が確実に減り、当時を知る語り部としてここに記憶を記しておこうと思います。
僕の初参加が巻之五。稼動から半年以上を経た時期でしたので、それ以前については当時まだ参加されていた最古参プレイヤー達にオフ会やチャットを通じて教えてもらったことや、ふぁすとさんから直接お聞きしたことなどを元に書いています。
1997年春、初稼動の巻之一はテストプレイということもあり、ふぁすとさんお一人で動かされたということなので、実際にプレイヤーが参加しての稼動は巻之二からということになります。
最初は子の刻のみで、参加者も少なかったのでテストプレイの側面が強い時期ということもあり、重複での参加を奨励されていたという今では考えられない事がされていました。
システム的にも奥州の端1国と九州の端50国は見えない線で隣接しているという設定だったそうです。
巻之三あたりでゲーム雑誌ログインに紹介されたこともあり人気に火が付き一挙に参加者が増え、それに対応して午の刻が稼動されました。
巻之六あたりまでは接している敵勢力内の海に面する国ならどこへでも水軍攻撃できるというルールだったため、圧倒的不利も組織戦に持ち込めば一瞬でひっくり返せるという状態にありました。
1998年には、その頃までは組織戦も少なかった動乱も除々に組織的な戦争が増え始め、水軍隣接の概念が導入されて、ほぼ今の動乱の形になったのが巻之七くらいだったと記憶しています。
プレイヤー数も増え、8月には酉の刻も開始されました。
午の刻八之巻より懲罰コマンドが実装され、その使用を巡って楽屋裏での議論が高まります。
また、その頃実験を目的としたデモ版が稼動を始め、計略などのコマンドが増えたり消えたりしていたと思いますが、残念ながら記録も無く、ふぁすとさんも記憶しておられませんでしたので詳細は不明です。
この頃まで、書簡システムも無く連絡は主に個人のメールを利用していました。
今でも、会見場で個人のホームページやメール記入欄が残っているのはその名残です。
第一回のオフ会が開催されたのもこの頃でした。
1回目から4回目までは幹事を務めさせていただきました。その後現在まで関西を中心として開催されているようです。
もちろん、その後各地でも多く開催されているようですね。
オフ会を機会に動乱のコミュニティ(チャット主体)が多く広がりはじめました。
連日打ち上げ状態と思っていただくとイメージしやすいと思います。
当時よく使われていたMSチャットは、漫画風のコマ割りで会話が進むというもので、覚えておられる方も多いと思いますが、テキストだけのIRCクライアントと比較すると重かったものの、のんびりとした空気感がいい味を出していましたね。
また、今のようにどの国に参加しているかを口外してはならないというルールも無かったので、かなり自由な交流がされていたのを覚えています。
今から思えば、PL共謀が起こらなかったのかと疑問に思いますが、実際にはそのような事は、そういうコミュニティの中では起こらなかったし、むしろ今でも共謀、重複者というのは動乱をよく知らない部外者が初めて参加するときに起こす問題だと思っています。
閑話休題。
ちょうどこの頃、午の刻で驚異的な事件が起こりました。
1ターン統一。(笑)
この事実は、瞬く間に動乱関連のコミュニティに知れ渡り、多くのプレイヤーは驚愕したのです。
しかし、これは単に開始時期の誤動作が原因でリセットするよりもそのまま稼動させた方がトラブルが無いということでふぁすとさんが急遽身近なプレイヤーを集めて早急に統一させて欲しいという依頼をし、それでtakawe氏とぴか氏の二人による24時間ガチンコ勝負の結果、ぴか氏の勝利という結末だったと聞いています。
巻之十でむーさんが僕に起こした仕官下克上が物議をかもし(笑)仕官下克上がしばらく禁じ手のように扱われた時期がありました。(暗黙のルール)
(むーさんの仕官下克上についてはDORAさんのページに裏話があります。)
ちなみに、巻之十で今は反則行為となったエラー戦を発案したのは恥ずかしながら僕でして、それによって大きな戦争に勝った事も物議をかもしました。
エラー戦自体の持つ問題点(サーバー負荷)がクローズアップされ、ルール的に反則となったのはこれが原因です。
1999年、春に始まった卯の刻二之巻は動乱史上唯一の外交全面禁止のルールの下、その頃実装された書簡と掲示板を閉鎖して、会見も禁止の完全なスタンドアローン状態で勝負するという実験刻でした。
この刻は決着が付かない事が予想されていたため、ターン数制限を設け、60ターン終了時で一番支配国数の多い国を勝者とし、天下人ではなく関白という職という事になりました。
このルールはこれ一回限りだったため、動乱での関白職は唯一人ということになります。
当初から重複やプレイヤー協合の問題を抱えていた動乱でしたが、楽屋裏でもこの頃大きく議論されるようになり、それに対するひとつの回答としての卯の刻だったのですが、やはり本来の外交をしない動乱というのはありえないという結論が出たにすぎませんでした。
この当時、子、午、卯、酉、デモと合計5刻が稼動するという動乱最盛期を迎えていました。
デモ以外は同時参加できないため、少なくとも200人以上の参加者が常時居たということになり、今とは隔世の感があります。
ちなみに、一番人気の子の刻とデモ版は参加者募集開始後10分以内に全て埋まるという状態が続き、動乱で一番緊張するのがこの参加募集の時だったというのは僕だけだったでしょうか(笑)
以後、卯の刻は2回目以降開始されず、デモ版は間もなく閉鎖され、午も2000年11月に閉鎖されました。(午は復活していますね)
午の閉鎖された2000年は動乱にとって画期的な事が多くありました。
ひとつは、ソネットによる動乱をベースにした動天というゲームが稼動し始めました。
また、初代GMのSlowWindさんとふぁすとさんによって動乱の管理フォームが完成し、誰でも簡単にゲーム管理ができるようになったことも、裏の事情としては画期的な事でした。
初のGMが誕生し、新しい動乱の流れが生まれました。
その頃、子の刻の戦国時代重視の方向性を、ふぁすとさんに提案したところ賛同をいただけましたので、子の刻の戦国時代実在人物限定刻の方針も決まりました。
言いだしっぺということもあり、武将名チェックをGMを辞めるまでの間担当しました。
2000年以降の歴史については、もっと詳しい方がきっとおられることと思います。
黎明期と言えるのもこの頃までだと思います。
今となっては、遺物とも言えるこれらの事柄も、僕にとっては大事な思い出の一つ一つです。
興味を持って読んでいただける方が一人でもおられれば、幸いです。
ここでは、化石プレイヤーと言われるりきゅうが、私的にセレクトした動乱黎明期を支えたプレイヤー達を紹介しようと思います。
この中には、今もひそかにご活躍されている方がおられるかもしれませんが、基本的に現在参加から遠ざかっておられるか引退を表明された方を中心に編集する予定です。
記憶を頼りにしていますので、間違いなどありましたらどんどん編集してください。
プレイヤー名迷鑑との住み分けは微妙ですかねえ?、ねえDORAさん。